宮本百合子(青空文庫より)

 佳一は、久しぶりで大岡を訪ねた。
 不在で、細君が玄関へ出て来た。四五日前からシネマの用事で京都へ行っているということであった。
「そうですか、じゃまた上ります。おかえりになったらよろしく」
 再び帽子をかぶりそこを出たが、佳一は、そろそろ貸ボートなど浮かび初めた牛込見付の初夏景色を見下したまま佇んだ。
 大岡は、ああいっていたって、本当に京都へ行ったのかどうか解りはしなかった。彼の彫刻のモデルになったお美濃さんという若い娘が、近頃恋人になった話は、佳一も聞いていた。大岡は、これまでもそういう種類のすきな女が出来ると、十日でも二十日でも、互があきるまで家をおっぽり出して、どこかへ引籠って暮す性の男なのであった。
 佳一は苦笑と羨望とを、同時に年上の友に対して感じた。彼はエアシップの吸殻を、ボールでも投げるように、勢いよく濠の水の上へ投げすて、あゆみ出した。
 午後二時の神楽坂はいたって閑散だ。ここには特別彼を立ちどまらせるほどのショウ・ウィンドウもない。大股に坂を登って行く、後で、
「いけませんよ、お嬢さま、そんなにお駆けんなっちゃ」
 若い女の声がした。薄桃色のピラピラした小さいものが、眼を掠めたと思うと、いきなり五つばかりの女の児が、横から彼につき当たった。佳一はびっくりして身をひらいた。
「――近藤さん、どこいくの」
 佳一は、二度びっくりで、女の児の顔を見た。
「なーんだ。楓ちゃんか! びっくりしちゃった」
 楓は、早速佳一に手をひかせてあるきながら、また、
「ね、どこいくのよ」
ときいた。
「さあどこへ行こうか……楓ちゃんはどこへいらしたの?」
「歯医者へいったの」
「そいで、アーン、アーン泣いたんでしょう? 電車の中まで聞こえてよ」
「嘘! 楓ちゃん泣かなくってよ、今日は」
「チョコレートばっかりたべるから、今に歯なしになるんだろう」
「ううん、一本とるだけ」

 この間さがさなければならない本があって銀座の紀伊国屋へよったらば、欲しいものはなかったかわり、思いがけずパウル・ヴォルフの傑作写真集が飾窓に出ているのに気がついた。もうかえろうとして飾窓をふりかえったら、そこにある。見たくなって、もう一遍混雑をきわめた店内へ戻って、奥の方で開けて眺めているうち、大決心をして到頭買って来た。
 ヴォルフの写真を集めた本は、何年か前に「海辺にて」という題だったか、ヴォルフ夫人と幼い女の児とを海辺の様々な情景で撮したのを見たことがあった。その時から写真にもこういう味いがあり得るのだという印象をつよくのこされた。
 日頃カメラを愛する人々にとっては、今更ヴォルフも知れすぎた物語であろうけれど、番町書房というところから発行されているこの一冊の作品集は、いろいろな感銘で私をうごかした。
 ヴォルフのカメラはまるで美感と温さとをもった生きもののようで、独特の生命に流動しながら、対象の極めて自然な、しかも性格的なモメントをとらえている。最高の機械と技術とが駆使されていることは明らかなのだが、ヴォルフの製作の一つ一つの態度は、それらの道具を駆使する感興というような末梢から遙にぬきんでている。私を一番感動させたのは、制作者としてヴォルフがもっているひろやかで瑞々しく複雑な情緒と、対象をそのものとして活きた性格の姿でとらえてゆく主観の謙抑とでもいう美しさである。頁から頁へと一つの印画から一つの印画へとそこに描こうとされた生活の各断面が十分の量感をもって展開されていて、そこからたちのぼって来る生活の息づきに、心持よく顔をふかれるような感じをうけた。
 夏の或る日、畳まった町の屋根屋根を越してずーっと下の方に並木路が見える。その並木路は海岸の散歩道で、梢のこまやかな樹木の彼方に低く遠く静かな海の面がのびている。ぽっくりと一人白い軽い外套を羽織った女がその海岸通の並木路の日蔭の間に立って片手を高くあげながらむこうを通ってゆく汽船に挨拶を送っている。
 カメラは高い高い左手の上からその光景を俯瞰している。近い屋根屋根の波の面白さ、それから段々と低くなって並木通へ視線が導かれ、そこに在る点景の白い婦人の姿を中心として一層ひろい海面へのびてゆくリズムは実に変化と諧調に富んでいて、眺めていると複雑にとらえられている角度や線の交錯から、その海辺に都会がつくられて来た歴史の奥行だの、その屋根屋根の下で営まれているその日その時刻の生活の微かな音響だのが、夏の日光の中に匂いとなって感じとられて来るのである。

 武者小路さんの「後に来る者に」の中に動かされない強みと云う事の書いてあったのを覚えて居ます。
 動かされないと云う事を今の私は或る意味で非常にのぞんで居る事です。
 私の狭い智や愛、まだ年の工合で、時々は自分の恐れを感じるほど物事に動かされます。
 一冊本を読めば大抵の時は何かもうすっかり心の底まで感激して仕舞う様な事が有って、その度びに自分を情なく思ったり――勿論情なく思いきりでへこたれはしませんけれ共――まあまあと思って見たりします。
 世の中の出来事のすべてに対して左様です。
 私の心の驚いたり感じさせられたりする事は、善悪の区別もなく、美醜の見境えもないので、私の毎日は何と云う動かされどうしな事でしょう。
 或る時は身の置き所のない程自分が小さく見すぼらしいものになったり、そうかと思えば非常に拡がった自分になって、世界中のどんな人にでも謙譲な美くしい自分を現わして行ける心持になったりして居ます。
 そして、其那ときには、落着いた心で自分をながめ人を知り、一歩一歩を焦立たず悲しみにおびやかされず進んで行ける様になった二十四五の人が此上なく羨しくなって来るのです。
 ほんとうに、もう少し動かされなくなったらどんなに好いだろうと思います。
 けれ共有難い事には、此の一二年同じ動くにしても、或る一点の支点だけは不動に確立して居る事を信じられる様になったのは嬉しい。
 只それ丈で、どんなに動かされても堪えられ幾分ずつなりとも育てられては行きますけれどまだまだ私の心は若すぎると思わずには居られません。
 まるで赤坊と同じです。
 赤坊が風車を廻されて驚き、舌出し三番の舌を見て泣き出すと同じ等な驚きをし泣き方をして居ます。
 ほんとうに動かされたくない。